日本政府の「アイヌ新法」案の撤回を求める声明

2019年2月25日

 

アイヌ政策検討市民会議 

(世話人代表 丸山 博)

 

2019年2月15日、「アイヌの人々の誇りが尊重される社会を実現するための施策の推進に関する法律案」(以下、法案と省略)が公になりました。日本政府は、閣議決定を終え、今国会での成立を目指しているようですが、多様なアイヌの声が反映されない法案に正当性はあるのでしょうか。中身を見ても、第1条に「北海道の先住民族であるアイヌ」と書かれているものの、その後の条文ではそれを具体化する施策はありません。

 

法案は、「先住民族の権利に関する国連宣言(以下、国連宣言と略)」を棚上げにし、国内外から問題を指摘されたアイヌ文化振興法の検証もせず、アイヌ遺骨の盗掘・放置やアイヌのサケ漁への不当介入などの重大な人権侵害に対し謝罪も反省もしていません。したがって、法案は、アイヌ民族が長年に渡って塗炭の苦しみを味わってきた植民地支配に基づく差別、貧困、格差など先住民族アイヌに係る本質的問題を解決するものではなく、アイヌ文化振興法の延長線上で、アイヌ文化振興を観光や地域政策に結び付けただけのものであり、アイヌ民族に対する植民地政策の継続宣言といっても過言ではありません。

 

今日の国際社会は先住民族政策の基準を国連宣言などの国際人権基準に求めています。国連宣言は、その前文において、「先住民族は、とりわけ、植民地化とその土地、領域および資源の強奪から生ずる歴史的な不正義に苦しめられ、自身のニーズと利益に基づき発展する権利の行使を妨げられてきた」ことを踏まえ、「先住民族固有の権利を促進する政策を速やかに進める必要がある」と謳い、先住民族の自己決定権をはじめ、土地、資源、言語、文化、宗教などへの権利の保障を条文化しています。私たちアイヌ政策検討市民会議は、法案を国際人権基準に基づいて検討した結果、以下に示すように、法案が欠陥だらけのものであることを断言します。したがって、日本政府の法案を一旦撤回し、蚊帳の外に置かれてきた多様なアイヌの声を反映できる仕組みを作り、新たな法案の議論をアイヌ民族の手にゆだねることを求めます。

 

 

1.法案策定過程の欠陥

 

法案は、先住民族であるアイヌの人々(アイヌ民族)を直接の対象としたものであるがゆえに、法案の策定にあたっては、十分な情報提供に基づき、多様なアイヌの間で議論をつくし、合意されたものであることが前提条件となります。

 

一般に「アイヌ民族」と総称される人々の集団には、大きく北海道アイヌの他、樺太アイヌ、千島アイヌの集団が存在し、それぞれ異なる文化や歴史的背景をもっており、それぞれの民族集団が議論に参加することが必要です。また、アイヌの社会は、各地の「コタン」という主権集団に分かれており、各地域(各コタン)単位で法案に対する議論がなされる必要があります。

 

しかしながら、今回の新法案が直接議題となったのは、政府が招集しているアイヌ政策推進会議の2018年12月19日に開かれた会議のみであり、この場においても概要のみが示されたうえで、ほとんど議論もなく政府案が承認されています。そもそも、このアイヌ政策推進会議の構成は14名の委員のうちアイヌ民族はわずか5名であり、アイヌ民族を代表するものではありません。今回の法案の策定プロセスは、先住民族に関わる政策の意思決定が先住民族の「無条件で事前に十分な情報に基づく合意」(FPIC)によってなされることを求める国際人権基準(例えば、人種差別撤廃委員会の一般コメント23、国連宣言第19条など)に著しく反しています。

 

人種差別撤廃委員会 一般コメント23(1997年)

d. 先住民族の構成員が公的生活への実効的な参加について平等の権利をもち、自らの権利や利益に直接関連する決定が、十分な情報にもとづいた合意なくして行われないことを確保すること。

 

先住民族の権利に関する国連宣言(2007年)

第19条 国家は、先住民族に影響を及ぼし得る立法的または行政的措置を採択し実施する前に、彼/女らの自由で事前の常用に基づく合意を得るため、その代表機関を通じて、当該の先住民族と誠実に協議し協力する。

 

2.アイヌ文化アプローチの欠陥

 

法案は、「アイヌの人々の誇りが尊重される社会」を実現するための施策の推進を掲げていますが、本来の民族の「誇り」が尊重されるためには、アイヌが集団および個人として持っている権利に基づいて政策が組み立てられなければなりません。

 

しかし、法案では、アイヌの人々の誇りの源泉を「アイヌの伝統及びアイヌ文化」と規定し(第1条)、この法案で推進する「アイヌ施策」をアイヌ文化の振興等とそれに資する環境整備に限定しており(第2条)、従来のアイヌ文化振興法の延長線上の規定にとどめてしまっています。また、アイヌ文化については、「アイヌ語並びに音楽、舞踏、工芸その他の文化的所産」といったアイヌ文化振興法上の定義に「アイヌにおいて継承されてきた生活様式」が付け加えられたものの、先住民族文化であるアイヌ文化を依然として狭く限定しており、国際人権基準(例えば、国際人権規約社会権規約委員会の一般コメント21)に反しています。

 

国際人権規約社会権規約委員会の一般コメント21(2009年)より

「先住民族の文化的生活に関する集団的特徴は、彼らの存在や幸福、完全な発達にとって不可欠であり、彼らが伝統的に所有し、占有もしくは使用し、獲得した土地、領土、そして資源への権利をも包括する。先祖の土地や自然との関係とかかわる先住民族の文化の価値や文化的権利は、敬意をもって認められ、保障されなければならない。締約国はしたがって、先住民族がその共有する土地、領土、資源を所有し、開発し、管理し、使用する権利を認め、保障するための施策を講じるべきである。(中略)締約国は、先住民族の特別な権利にかかわるすべての事柄について、彼らの“自由意志に基づき、事前に十分な情報を与えられた上での合意の原則”を尊重しなければならない。」

 

3.先住民族の権利保障の欠陥

 

法案では、「国有林野での林産物の採取」や「内水面におけるサケの採捕」などが記載可能な事業として想定されていますが、いずれもアイヌにおいて継承されてきた儀式の実施等への利用のためという制限がつけられており、言い換えれば本来、アイヌ民族が生業として林産物の採取やサケの採捕をしてきた権利は侵害されたままです。

 

そもそも、これらの事業を記載したアイヌ施策推進地域計画を作成する主体は市町村であり、それを認定するのは内閣総理大臣とされています。法案には、アイヌ自身を意思決定の主体とする文言は一切なく、国連宣言の心臓ともいうべき第3条(自己決定の権利)と第4条(自治の権利)を完全に否定した、新たな植民地政策と言っても過言ではありません。

 

先住民族の権利に関する国連宣言(2007年)

第3条 先住民族は、自己決定の権利を有する。この権利に基づき、先住民族は、自らの政治的地位を自由に決定し、その経済的、社会的および文化的発展を自由に追求する。

 

第4条 先住民族は、その自己決定権の行使にあたって、自治機能の財

源を確保するための方法と手段を含めて、自らの内部的および地域的問題に関連する事柄を自律あるいは自治的に行う権利を有する。

 

4.アイヌ社会の分断の危惧

 

法案は、前述のようにアイヌ文化を国が一方的に狭く解釈することによって、アイヌから自身の文化を主体的に選び取り、発展させる可能性を奪っています。そのうえ、事業を行うための地域計画の策定主体は市町村とされており、市町村に対して国から交付金が支給される仕組みとなっています。このことは、アイヌ文化を担う主体がアイヌ自身から市町村あるいは観光業界などに移ってしまう危険性を孕んでいます。交付金をめぐる自治体間競争にアイヌが巻き込まれ、アイヌ社会の分断が進むことも危惧されます。

 

この仕組みについて、昨年12月19日のアイヌ政策推進会議で委員の一人は、「これはアイヌ民族と日本社会の実情を踏まえた先住民族政策として積極的に評価されるべきもの」と発言するとともに、国連宣言に掲げられた先住民族の諸権利のアイヌ民族への適用に消極的な意見を述べています。法案に反映されたこうした考え方は、憲法の前文で国際協調を、第98条2項で日本国が締結した条約及び確立された国際法規の誠実な遵守を謳ったことに背を向けるものです。

 

日本政府は法治国家として国連宣言を遵守し、その権利尊重の姿勢に逆行する今回のアイヌ新法案を一旦破棄すべきです。そして、アイヌに対して行った数々の歴史的不正義と真摯に向き合い、アイヌを代表する諸組織との対等な話し合いを通して、アイヌ民族が総体として歓迎できるような国際基準にのっとった先住民族法としてのアイヌ新法をつくるべきなのです。