北海道とアイヌの人びと
政府は、1869年に開拓使という役所をおき、蝦夷地を北海道と改めて多様な開拓事業を進めました。開拓使は、炭鉱を開発し、官営工場を運営したほか、札幌農学校を開いて農業の改良をはかりました。また、北海道外からの移住政策を進め、土地を耕しながら兵士の役割も果たす屯田兵を配置し、これに失業した士族をあてました。
開拓が進むにつれ、それまで自由に漁業や狩りを行なって独自の文化を持っていた先住民族のアイヌの人びとは、仕事や土地を失ったり、移住を強制されたりして、生活に困るようになりました。この過程で、日本語や日本式の名前の使用も義務づけられ、アイヌ固有の言葉や生活様式、独自の文化も失われていきました。
北海道の開拓とアイヌの人々
ロシアと国境問題をかかえていた政府は、蝦夷地の開拓を進めました。政府は蝦夷地を北海道に改め、開拓使という役所を置いて統治を強化するとともに、農地の開墾、鉄道や道路の建設など、欧米の技術を取り入れた開拓事業を行ないました。
開拓の中心になったのは、北海道以外の日本各地から移住してきた農業兼業の兵士である屯田兵などでした。また、労働力の不足を補うため、囚人がかり出され、道路工事などの困難な労働の中で、多くの犠牲者が出ました。
さらに、開拓が進むにつれて、先住民であるアイヌの人々は土地や漁場をうばわれただけでなく、アイヌ民族の伝統的な風習や文化などを否定する同化政策が進められました。
歴史の窓(コラム)北海道の開拓とアイヌの人たち
北方の開拓と防備に力を入れた政府は、1869年、蝦夷地を北海道と改め、開拓使という役所をおきました。初めは職を失った士族らを移住させ、開拓にあたらせました。士族には、非常のときに武器を取って防備にあたる、屯田兵の役割が与えられましたが、後には農民からも屯田兵が募集されるようになりました。
開拓が進むにつれて、先住民族であるアイヌの人たちは猟や狩りの場をうばわれ、苦しい立場に追い込まれていきました(p171→)。政府が1899年に「北海道旧土人保護法」を制定した後も、アイヌ民族に対する差別は続きました。
http://www.kyoiku-shuppan.co.jp/docs/h28chugaku/shakai_rekishi/index.html
日本の近代化とアイヌ
◎アイヌの人たちの文化と生活
蝦夷地(北海道)では、日本本土が農耕社会に変わってからも、狩猟採集の社会を維持しました。蝦夷地の人々は、本土から移住してきた人々の影響を受け、樺太からやってきた人々と交わり、アイヌといわれる人々になっていきました。彼らは文字を持たず、日本語とは違うアイヌ語を話していました。
12世紀から13世紀にかけて、熊を殺してその魂を神のもとに送り返すイヨマンテという祭りや、独特の音楽など、特色のあるアイヌ文化を形成しました。アイヌの人たちは、コメや衣服、漆器などの生活必需品を、彼らが狩猟採集によって得たサケ、コンブ、毛皮などと交換する交易によって手に入れていました。江戸時代末には人口は約2万人でした。
◎アイヌの保護と国民化
明治政府は、本土からの屯田兵を入植させて北海道の開拓につとめました。アイヌに対しては農業のやり方を指導して、農耕民になることをすすめました。すでに江戸幕府は、アイヌの人口を増やすために、若い男女に結婚を奨励しました。医療施設を置き、天然痘を防ぐための種痘を実施しました。
政府も、幕府の人口増加政策を受けつぎ、定住生活を送るように指導し、死者が出たときに家を焼き払う風習を禁止しました。また、文明開化の観点から、男の耳輪と女の入墨を禁止しました。さらにアイヌの子弟に文字を教えるために学校を設立し、親に金銭をあたえて、子供を学校に行かせるように指導しました。学校では給食を提供し、入浴させて身体を清潔にすることを教えました。
しかし、アイヌの人々は、新たに導入された近代的土地所有制度によって認められたわずかな土地も、不利益な条件で賃貸したり手放したりしました。そこで、明治政府は、1899(明治32)年、「北海道旧土人保護法」を制定し、農業を希望するアイヌに5町歩(約5万㎡)の土地をあたえました。そして、契約に慣れていないアイヌが和人に土地を取られないように、相続以外の土地の譲渡を禁止しました。このように、明治政府はアイヌを日本国民として保護しました。
◎アイヌ文化振興法へ
ところが、この法律の下では、農耕に適さない土地を含めてあたえられるなどの問題もありました。そして、戦後の農地改革によってアイヌの土地のほとんどが没収されたため、この法律は、アイヌ保護法としての存在意義をなくしてしまいました。また、「旧土人」という呼称がしだいに差別的な意味合いを持つようになったため、1997(平成9)年に廃止されました。代わりにアイヌ文化振興法が制定され、アイヌ語や舞踊、工芸などのアイヌ文化を振興していくことになりました。
北海道の開拓とアイヌ
政府は、未開墾の広大な土地が遺されていた北海道の開拓を重視した。開拓使は官営工場を運営し、鉱山を開発するとともに、アメリカ式の農法を取り入れた大規模な農場をつくった。そのにない手として、日本各地で募集された人びとが北海道に移住した。政府は屯田兵の制度をつくり、職を失った士族らをこれにあて、防備と開拓に従事させた。
この過程でアイヌは、それまでの狩りや猟をおこなっていた山林や河川に自由に立ち入れなくなったり、別の場所への移住を強いられたりした。また、和人との接触を通じてもちこまれた感染症にも悩まされていた。1899年には北海道旧土人保護法が定められたが、ますます苦しい生活を強いられたアイヌも多かった。このあいだにアイヌの固有のことばや生活様式、独自の文化も失われていった。
(写真キャプション)
札幌農学校 北海道を開拓するための人材を育てる学校として、1876年に開校(現在の北海道大学)。学生のなかには欧米に留学し、帰国後は大学で西洋の学問を教えるようになった者もいた。
(注釈コラム)
旧土人保護法は、アイヌに土地をあたえて農業をさせることなどを定めていたが、アイヌには農業に適さない土地があたえられ、開墾できなかったとして没収されることもあった。またこの法律をもとにアイヌだけが通う学校が設置されたりした。この法律は最近まで存続していたが、1997年、アイヌの民族としての権利保障をもりこんだアイヌ文化振興法ができたときに廃止された。
http://www.shimizushoin.co.jp/tabid/89/pdid/368/Default.aspx
北海道の開拓
蝦夷地は、1869年に北海道と改称されました。新政府は、ロシアに対する北方の防備をかねて、本格的な統治と開拓を進めました。開拓使を設け、農地の開墾、鉄道・道路の建設、都市づくりなどを行いました。そして、生活に困っていた士族などを、北海道の開拓と防備にあたる屯田兵として移住させました。1890年代には、本土の資産家による土地所有や、平民の集団移住が増えました。一方、東堂力不足を補うために政治犯をふくむ多くの囚人も動員され、開拓が進められました。
生活を変えられたアイヌの人々
開拓が進むにつれて、アイヌの人々は狩りや猟の場をうばわれました。新政府は、アイヌ古来の風習をやめさせ、日本人風の名前を名のらせ、日本語の教育を行うなど、「日本国民」にするための政策を行いました。また、アイヌの人々を保護するという名目で、北海道旧土人保護法を制定しました。政府は農業を推進し、穀物の種子を農具を与えましたが、開墾できない土地を与えられたり、農業になれていないために土地を失ったりする者もいました。アイヌの人々を本土からの移民と雑居させたくないという考えから、条例によって土地を取りあげ、強制移住も行いました。こうして、アイヌの人々が先祖から伝わる生活や民族独自の文化を保つことはしだいに難しくなりました。
北方の国境と守り
新政府にとって最初の外交問題は、近隣の国々と国境を取り決め、正式な国境を結ぶことでした。1854(安政元)年の日露和親条約では、千島列島について、択捉島以南は日本領、それより北はロシア領とされていましたが、樺太(サハリン)については境界が定められていませんでした。そのため樺太は、両国人が雑居する地域となっていました。わが国は、イギリスの忠告に従って、1875(明治8)年、ロシアと樺太・千島交換条約を結び、この結果、千島列島は日本領、樺太はロシア領となりました。
政府は、北海道に開拓使を置き、全国から屯田兵を募集しました。これは北方の警備と北海道の開拓をかねた事業でした。全国から集まった士族や農民にあ、土地や農具、武器があたえられました。屯田兵たちはきびしい自然環境に耐え、広大な畑をつくり、政府は鉄道や近代的な工場を建設していきました。