第3回市民会議 2016年11月19日

「アイヌ先住権復興を目指す~クジラ漁業をめぐって~」

畠山敏 紋別アイヌ協会会長

 

イランカラプテ! ご存じの方もいらっしゃると思いますが、私は一介の漁師で、聞き苦しいところが多々あると思われます。理解しながら聞いてください。

 

私の生まれというのは、吉田(邦彦・市民会議呼びかけ人)先生のご紹介のとおり、紋別市元紋別の、昔はアイヌ部族コタン(だった地区です)。(全戸で)17~18軒、(そのうち)アイヌの方が15~16軒、和人の方が2~3軒ありました。

 

(私は)そこで生まれ育ちました。それで実は、私の曾孫ばあさんというのが、(アイヌプリで)口(の周囲)を(入れ墨で)染めたアイヌばあさんで、マツヨばあさん。このばあさんが、私が中学生ぐらいで亡くなったんですが、その時はもう90いくつか、でも頭はしっかりしていて。このばあさんからアイヌの昔の話、それから歌も(おしえてもらって)、おぼろげに今でもちょっと覚えているところもあるのです。私が言うと、どうも日本語と混じったようなアイヌの歌なんですが(笑)。

 

このマツヨばあさんから聞いた話と、それから私の(ルーツを遡って)歴史を調べてくれた方々が何人かいるのですが、それでこのばあさんの、要するに昔話というんですかね。

 

(コタンは)本当の海岸沿いで、海が時化ると波が玄関前を走る、波が玄関前までザーっとくるようなところで生活していたのです。(現在は)市のほうから「危険性がある」ということで(住宅や事務所を)別の場所に移転したのですが。

 

その移転前に、私のうちの掘っ立て小屋、柱から何からみんな粗末なもので、掘っ立て小屋だったんです。その家のすぐ山手側のほうは、ばあさんの口癖で「汚いことするなよ」と。(当時)男の子はみんなちんこ出して、どこでもおしっこしていた。でも「そこではそんな汚いことすんなよ」と、ばあさん(が言い聞かせていた)。

 

「なぜか?」と私が聞いたのかどうか、その辺の記憶はないのですが、うちの母親から聞いた話では、そこが昔の部落の祭場、儀式があった祭場だったところだと。(その後)津波(高潮)で砂が上がって(一帯の)地形が変わってしまっていたけれども、「その辺が祭場だった」ということなんです。(その祭場で)何を象徴にしてお参りしていたかと言えば、クジラの頭骨だったのです。

 

津波(高潮)が(紋別市の沿岸部に大きな被害を及ぼしたのは)大正5年(1916年)ですか。

 

ちょうどうちの山手側のほうに沢地があるのですが、(後年になって)「紋別側の沢の土手のほうにクジラの頭骨があった」と、徳一おじさんっていう(叔父が知らせてくれた)。この人はマタギ(猟師)だったんです、若い頃はね。当時は今のように重機も何もない時で、(私が)「(見つけたクジラの頭骨を)4、5人くらいで担いで来られないですか?」と言ったけど、「トシ(畠山敏)、何言ってんのよ、人力では到底無理だ」と。

 

これは(骨の一部分だけが)サッと(地表面に)出てて、(残りの部分は)草が腐ってみんな土に還ってしまって、スコップ持って行ってなかったからどこが端なのかわからないほど大きな頭骨だった、ということは、このおじさんから聞かされていました。

何年か前に(叔父が頭骨を見つけた場所に)この頭骨を探しに行ってみたんですけど、(すでに現場では)山(や沢)をみんな、今の重機で平らにならしてしっまっていて、全然それを発見することはできなかったんです。

 

その頭骨を祀っていたという話からいっても、やはりうちらの先祖はクジラを利用していたのだと(いうことは明らかです)。

 

(紋別だけではなく)北海道中いたるところに、太平洋、日本海、石狩のほうにも、クジラの顎を祀ったような(証拠があります)。そしてフンベ──アイヌ語でクジラのことをフンベというんですが──、日高のほう、襟裳のほう、あそこにもフンベの沢とかフンベトンネルとか、フンベの名前がつけられているところがあちこちにある(ことからも、アイヌとクジラの関係が深いことが分かる)んです。

 

今から17~18年前に、「アイヌのクジラ利用研究の第一人者」という学者さんに巡り合って、その先生が北海道中のアイヌの資料を集めて文献にしてくれたものも何冊か持っているのですが、その中にクジラを利用していた我々の先祖のことが(詳細にまとめられています)。

 

当時はクジラを1頭獲ると、2~3つの村が潤うと。それぐらいの大きな恵みをもたらしてくれた(のが)クジラだということです。

私、実は今から20年くらい前から、(イシ)イルカ獲りを(行なっていました)。冬の間、10月末から5月いっぱいくらいまで(が漁期です)。(厳冬期は)紋別は流氷がきて(前浜では)漁にならないから、三陸一帯から茨城、千葉の房総半島のほうまで、毎年冬の間は漁にでかけていました。

 

(紋別地方は)寒冷地帯で、冬はクマと同じで、漁師はみな冬眠生活に入る。自分はそれが嫌で「船を持ったからには冬も働くんだ」という考え方でしたね。

 

平成7年(1995年)と、その前は(平成)3年(1991年)だったか(にそれぞれ船を新造しました)。造った船は3~4年くらいで使い物にならなくなるほど、使いこなしました。(映像を見せながら)これは2007年に作った船です。

 

北海道(船)籍(の)我々(当時4隻)の(イシ)イルカ漁獲枠は(年間)1000頭(以下)を水産庁から配分されていました。東北(船)籍の(イシイルカ漁業船)ほうは、東北で漁獲枠が決められていて、その範囲内で操業をしていたのです。

(私は)当時、水産庁に年3回は(ミンククジラ漁を認可するよう)陳情に行ってました。水産庁に行くたびに聞かれるのは、「(あなたはイシ)イルカ獲りやってて(錯誤捕獲でミンク)クジラ獲ったことはありますか?」と。「ない」と言ったら嘘になります。だから「ありますよ」と言いました。その時に対応してくれた方(水産庁担当者)はOさん。(私が)「Oさん、あんた(ミンク)クジラと(イシ)イルカの相互関係(を)分かって聞いてるのか?」って言ったら、「分かってますよ」と(Oさんは答えました)。「分かってるなら聞くことないでしょ?」と私が言うと、「でも畠山さん、(イシイルカ漁の最中にミンククジラを錯誤捕獲で)獲ったこと話してください」と言うから、自分が体験したことを話しました。

 

弱ったクジラというのか、(海中で動きが鈍くなっているクジラに)イルカが(近づいて、クジラの)腹をつつくと、クジラが餌を吐き出す。(それまで食べていた)小魚とかオキアミとかを吐き出す。それをイルカが拾って食べる(という行動をとる)んです。

 

(だから)イルカの群れ(の中)にクジラがいたなと思いながらも、その中から(捕獲が許されている)イルカ(だけ)を獲らなくてはいけない。で、(銛を)構えるんです。(しかしいくらイルカを狙っていても)野球選手が「なんであんなボール球(を)投げるんだ」って(思うほどの暴投をしてしまう)のと同じような時もあります。イルカ目がけて銛を投げるつもりが黒いの(ミンククジラ)がボーっと出てきたら……。投げながら「あっクジラだ!」って思いながら(動作を途中で止められずに銛の)竿を投げることもしばしばあるんです。人間、「あーっ」と思ってても体が自然に動いてつい銛を投げてしまう。

 

「それで(銛を受けたミンククジラを)手負いにして(回収せずに瀕死の状態のまま)離してしまったら、あんたら水産庁から何てお叱りを受ける?」(と、私はOさんに言いました)。(クジラの体に刺さった銛竿には)反射塗料を塗った赤いブイをつけてね、それには船名も書かれている。「紋別港58」と。(そのまま放置して、銛を打たれた瀕死のクジラが海岸に漂着しているのが見つかったら)「手負いのクジラを引っ張りまわしていたらあんたたちからとんでもないお叱りを受けるだろう」と。「だからそんな(錯誤捕獲でミンククジラに銛を打ってしまった)時はイルカ漁やってる仲間を呼んで、みんなで解体して(違法な販売などせずに)分かち合って食べました」と言ったら、(Oさんは)「ああ、それじゃ問題ないです」ということでした。

3、4年前に水産庁に行った時は、「ヒゲクジラ(類、ミンククジラを含む)はIWC(国際捕鯨委員会)の捕獲規制枠内だから、IWCの了承を得なければ(捕獲しては)だめですよ」と言われました。(ミンククジラの捕獲規制緩和をIWCに求めている日本の)水産庁では、断る(国内漁業者のミンククジラ漁を止める)を理由(が)ないんです。IWCもなにも、先住民族には全然関係のないこと(IWCは「先住民族生存捕鯨」をモラトリアムの適用外と定めている。にもかかわらず、IWCの規制)を引っ張り出してきて、水産庁は断る理由づけというのか、そういうことに利用している。

 

それとシャチ。よくテレビでも放送されていますが、クジラの子どもにかぶりついている映像。(シャチはミンククジラにとって捕食者)だから、「畠山さん、シャチであれば獲ってもいいですよ」というのが水産庁の見解でした。ただ、我々はクジラを食べる──クジラのけんちん汁っていうんですかね──北海道の内陸(地方のアイヌの食習慣)は分かりませんが、(オホーツク)海岸沿いから日本海沿岸では、クジラのけんちん汁を食べる食習慣があったんです。でもシャチの脂は、はたして人間の体で消化しうるものなのかも分からないし、私も食べたことがありません。なので、それはちょっと獲るのをやめようと思って、いまのところ控えております。

(先ほども話しましたが)今から17~18年くらい前(に出会った)アイヌの研究やクジラに関しても権威のある女性の学者なんですが、その当時、(アイヌ民族の)捕鯨(許可を求める)の陳情をしに水産庁へ2~3回、一緒に行ってくれました。しかし何度行っても水産庁の対応は同じだったので、(陳情の後に)先生が「畠山さん、(現有の漁船で)クジラ獲れないのですか?」と(私に質問しました)。

 

「いや、獲って獲れないこともないです」と私(が答えると)、「それなら畠山さん、今すぐ獲ってらっしゃい」と言ってくださいました。「何ら法的に問題ない(はず)」とも(助言してくれました)。

 

それでも私の中には、アイヌ民族の自覚もありながら、和人(と同じ日本国籍の漁業者)としての気持ちもあるのです。もし私が(捕獲規制を無視してミンククジラを)獲ってきた(としたら、)後に法的な問題はどうなるのか? 世間の反応や評価は? やはりそう考えたら二の足を踏むといいますか。

 

さらに我々にとって、大学の先生と言えば、「先生、これを獲ったらどうなるんですか? 弁護士とかが必要なんですか?」などと気軽に話のできない方々でしたからね、畏れ多くて……。その時はそういう雰囲気だったんです。でも権威のある先生は「獲ってらっしゃい」と言ってくれたんです。(助言を受けたのは)私だけでなく、私の兄、もう(亡くなって)この世の人ではないですけれども、その兄と、当時(経営する会社の)事務方をやっていた人と三人で先生に会いに行った時に、そう話してくださいました。

 

時たま、こういう席で話すこともあるんですけど、クジラを日本政府ではね、私も24年(にわたって)捕鯨推進活動してるんですが、やはり向こう(政府)は、向こうなりの断り方といいますか……。

 

今日本でやられている捕鯨というのは──釧路(港)でミンククジラ(が毎年およそ)60頭揚がってますが──3~4年くらい前までは、1000トンくらいの大型船で、ミンククジラを獲っていたんです。(日本政府から特別許可証を発給された財団法人日本鯨類研究所の委託を受け、資源)調査のため、学術調査のためということで獲っていたんです。でも、どうもそれ(大型船操業)では規模(捕獲枠)が小さくて(漁業者の)利益が上がらないってことで、小型捕鯨協会(一般財団法人地域捕鯨推進協会)、小型捕鯨(船)といっても30~40トンのくらいの船で操業しているのですが(そうした規模の捕鯨船が出漁しています)。(全国で)5隻くらいいるのかな、現在。

 

その方々に「あなた方、研究しなさい」ということで(調査研究の名目で捕鯨をさせています)。(調査委託を受けた日本の捕鯨船が)今は時期的にどうかわからないですが、太平洋の(小笠原諸島の)父島、母島、そちらの方面で大型のクジラを獲っています。それについてはインターネットなんかで情報として上げられてるかどうか調べてみたのですが、今のところ情報開示はしていないようです。

 

しかし、その点からも水産庁独自に決めた自分たちの捕鯨枠としか言えない。その団体も250人くらいの天下り先と言いますか、水産庁もそういう組織(を維持するために調査捕鯨事業を続けているのではないか)だと勘ぐってしまいます。税金も55億円ほど使われてるとか……。私が一番腹立たしいのは、(2011年に大震災被害を受けた)三陸の復興資金(の中)から、調査捕鯨(関係団体)の方々が「(反捕鯨団体の)シーシェパード対策費用」だと言って5億円持って行って(予算計上して)、それは政治家ではなく官僚の決めたことだと思われるんですけど、大事な復興資金をシーシェパード対策費として持って行ってるんです。こんな矛盾したことが、日本政府では行なわれているということです。まったくの無駄金。自分たちの捕鯨活動に関しては情報も公開せず大型クジラの捕獲なんかをやっているわけですが、アイヌには何十年(捕鯨権獲得)推進運動やっていても窓口すら開いてくれないということです。

 

だから私は昨年(2015年)、(海上)保安庁に捕まるか警察に捕まるか分からなかったけど、強行突破で捕鯨に行ったんです。「私はクジラを獲ります」と宣言して、弁護士もお願いしてね、獲りに行きました。

 

でも今操業してる船、速力が足りなくて、クジラを発見したものの、クジラが先に泳いで逃げちゃう。何度か発見しても、そういうことで獲れなかったというのが実情でした。だから、来年またできるか、いつになるか、私の足腰の元気なうちにね。子孫、アイヌの人々に、捕鯨がすべてではないけれど、そういう技術だとか、私が経験してきたことを伝えていきたいなという思いでおります。

それと、今クジラの話をしてきましたが、以前、高橋はるみ(北海道)知事への(アイヌ民族に対する漁業支援を)陳情をした時に、知事も私の話を理解してくださって、「畠山さん、その陳情は急ぐのでしょう。それなら文書にして今すぐ上げてください。」と言ってくださったので、さっそく文書にしてあげてみたけれど、待てど暮らせどそれに対して返事がなかったという。3~4年前くらいにそういう経緯があったんです。

 

それは、オホーツク海にある「未利用資源」(の漁業権をアイヌに認めて欲しいという要望でした)。(かつてはオホーツク海沿岸部でも)ツブだとかエビだとか、獲っていたのです。(しかし)昭和53年(1978年)ですか、日本とロシアの国境(の外側)に200海里(までの漁業専管水域)が設定された(タイミングで、そうした水産資源に対する漁業が行なわれなくなった)。その内側に、そういう資源が漁獲枠設定もされずに無造作にあるということでね。それを、和人たちが自分勝手に決めた(とはいえ、既存の)漁業権に抵触するのではなく、「未利用資源として(アイヌに)獲らせてください、」と。

 

それが可能となれば、その操業には5人なり6人なりの従業員が必要なわけです。さらに遠い海区まで行くとなると、一隻だけだと海難上問題があるので、二隻(以上が必要になります)。すると(合わせて)10数名の乗組員(の雇用が生まれます)。可能であれば、アイヌの人々を優先的に(雇用して)ね。「我々と一緒にやろうじゃないか」という人が出てくれば、そういう方々と一緒に、未利用資源の漁業就労という形でやれるのではないかと、今でも考えています。

 

このようなことを、知事に言われた通り文書にして上げた(提出した)けれど、なかなか回答が返って来なかった(という)経緯がありました。(北海道アイヌ)協会も、あえて(私の思い描いたアイヌ漁業支援プラン)推進に協力するようなこともなく、(私は)孤立した気持ちから、私は協会を脱退するまでに至りました。

 

しかし、(地元の先住民族と協議しないままの森林開発を認めないというFSC)認証林の件で、(北海道)アイヌ協会のほうから、今年夏ごろ「畠山さんが考えていることは、長くても一年程度で実現するような状況になっています」と聞かされました。そういうことも前向きにとらえて、心穏やかにしてあまり過激なことをしないで待っていたほうがいいのかなと、最近ではそういう気持ちでおります。

みなさん、私がいまここで言うまでもなく、アイヌについては勉強なさっていることと思われますが、(「先住民族の権利に関する国際連合宣言」の)第3条に「自己決定権=先住民族は自己決定の権利を有する。自らの政治的地位を自由に決定し、ならびに経済的、社会的、および文化的発展を自由に追求する」と(あります)。これが民族宣言の第3条ですね。

 

それから第4条、「先住民族は決定権行使において、このような自治機能の財源を確保するための方法を含めて、自らの内部的、および地方的事柄にかんする事々、あるいは人事に対する権利を有する」。

 

まあこういうことは私が言わなくとも、みなさん(ご承知のことでしょう)。

 

第24条「土地領域資源に対する権利。先住民族は自らが伝統的に利用し、所有し、占有し、もしくは習得してきた土地の領域資源に対する権利を有する」。

 

こうした権利の実現を盛り込んだ「対アイヌ政策」が、これからは成されていくのではないか、という思いではいるのですが、ただ私も、年を重ねるたびに「いつまで現役で船に乗って若い者たちに仕事を指導したりできるか」「ここ1~2年がヤマ場かな」と。

 

私がよく漁師連中と話をするのは(こんなことです)。三陸沿岸から日本海、松前から利尻、礼文、それからこのオホーツク海。(私は)もう27~28年、30年近くの間、年に2~3か月くらいは、イルカを獲りながらずっとこの海沿いを回ってきた。そうして、それぞれの地域で海水温が何度になればどういうものがそこに寄り付くか(が分かるようになりました)。

 

それからイルカの生態系。クジラも同様に、どんな時に群れをなすのか。食物連鎖の観点から、何でもそうですよね、餌のある所で、水温がどうなればそういう生き物が寄り集まるのか。特に利尻・礼文方面なんかの海の様子とか、そういうことが私の頭の中に蓄積されている。

 

そういうことや経験を伝えていく、やはりそれが貴重なことだと思うのだけれど、ただ今のところ、それを伝えるすべがないという現状です。はっきり言って。

 

それと少し話が飛ぶかもしれませんが、現在紋別では住友関係の会社(住友林業株式会社と住友共同電力株式会社)がバイオマスの工場、発電所(紋別木質バイオマス火力発電所、出力50メガワット)を建てました。そこでは1日に600トンの原木、丸太を(チップ化して)焚くんだそうです。そうすると──紋別についてはあまりご存じないと思いますが、紋別には「大山」という山があるんです──その山ひとつ分(に生えている)の木を1日に焚くということなんです。

 

こういう施設は、紋別市長なり次期漁業組合長なり、そういった(和人の有力者の)方々が率先して企業誘致という名目で誘致してきたわけです。(しかし)私から言わせれば、木が、山が、森がいかに大切なものであるか、(彼らは)知っていてやっていることなのかと。

 

オホーツク海はかつて世界の三大漁場だといわれました。あの狭い海がね。それだけ資源が豊富だったのです。それは源をたどれば、ロシアのアムール川までたどりついて、そこから栄養源豊富な水が流れてきていた。流氷などに乗って。そのおかげでオホーツク海は資源が豊富だった。私はそう認識しています。

 

私はサハリンの漁業関係者の方、二組くらいの方々と今でも付き合いがあるのですが、その方々が「ロシアの山から木がなくなっている、サハリンの山も坊主状態になってしまった」と(話していました)。

 

かつて、小樽、稚内、網走、紋別(各港)にもロシアから原木、丸太がたくさん入ってきていました。ロシアもそれ(材木)をお金にしたくて山を坊主にした。だけどそれはそれで、ロシアの国のことだからやむを得ないし、(北海道の)我々が何を言うこともできない。でも、(オホーツク海の)そういう栄養の豊富な水、海洋生物をはぐくんでいるのは(健全な森の中から流れてくる)川の水だということでね、栄養のある水を海へ自然な形で出してやる。そういうことです。

 

それとやはり、ここ数年の温暖化。地球のことを言うとあまりにも話が大きくなってしまうけれど、海水温の上昇だとかも含めて、CO2が増えてきたせいだと。それでCO2を削減しなきゃって時に、ひとつの(バイオマス発電)施設が山の木を(1日に)600トンずつ焚くような、そういうものを造ってしまっている。

 

私もその(発電所に出荷するためにオホーツク地方の森林から)丸太を積み込んでいる場所を何度も見に行きましたけど、ナラの木だとかシラカバとか、(いわゆる)雑木ってやつですね、広葉樹。そういう丸太がたくさん積まれているわけです。

 

針葉樹であれば──これは50~70年前に植林したものだから──まだしも、再利用という名目でも許容範囲だろうと思いますが、広葉樹を保護することなく伐採してしまって燃料にしてしまう、燃やしてしまうということには、私から言わせれば、(発電事業者の)この方々は何を考えて地球上で生活しているのかな? と(思わざるを得ません)。

 

もう時間がきたみたいで、話が中途半端なのですが、だいたいこんなところで。どうもありがとうございました。